週の真ん中ストレート(3) 民ポン主義って何だ!? −田口望−

  • 中高生を悩ませる「民本(ポン)主義」なる造語

 吉野作造が1916年1月号の中央公論に「憲政の本義を説いて有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」という論文を寄稿しこれが大正デモクラシーに理論的根拠を与えました。今回はこの論文の中で彼が主張した、「民本主義」について掘り下げます。今も義務教育中学社会で習う必須単語「民本(ミンポン)主義」ですが、そもそもどうして、「民主(ミンシュ)主義」ではなくて、「民本(ミンポン)主義」を唱えたのでしょうか?この「民本主義」とは現在でいう「民主主義」とほぼ同義です。訳語も当然「Democracy」です。民本主義という言葉は吉野の造語です。彼がミンポンという造語までしてあるもののと一線を画したかったのです。それがために、今の日本の中学生は間違いやすい歴史の単語を一つ多く覚えなければならなくなったのです(笑)。

 

  • 大正デモクラシー前夜

 彼の理論を解説する前に当時の時代背景をお話しておきましょう。明治憲法が発布されてまだ25年しかたっておらず、封建的な考え方も一部に残っていた時代です。今でこそ、人間の価値はみな平等、選挙も一人一票が当たり前です。現代人が当たり前のこととして享受しているこのような考え方は、欧米の先進キリスト教国からやってきた考え方でした。この考えは、人は本質的に神の下では平等で、賤民だろうが国王だろうが皆同じ一人の人間で、等しく人権を有している(天賦人権説)というキリスト教的価値観に由来するものでした。吉野がこの論文を上梓した今から100年前の日本社会にはまだまだ、儒教的な価値観が根強く残っていました。明治時代になって士農工商の身分制度から四民平等がうたわれたといっても依然として華族という貴族制度は残っていまたし、人間の価値がそもそも平等ではありませんでした。「主君一人のためには、家臣が何人犠牲になっても構わない」と考える人が大勢いて、その考えが当然であり、それが道徳的に善、美徳とされていた時代だったのです。何より、明治憲法自体は国の主権が天皇にあると明記されていました。

 

  • 民主主義といったら共産主義と間違われてしまうかも

 そんな世界で、彼は欧米由来・キリスト教由来のこの素晴らしい民主主義を国民に啓蒙する使命感に燃えていました。しかし、民主主義(Democracy)を日本でそのまま紹介する訳にはいかなかったのです。今でこそ、民主主義という言葉は抵抗がないかもしれませんが、民主というと国家元首が民の国という意味になってしまう。つまり、君主が統治する「帝国」「王国」に対比しての、「民国」共和政体の国という意味が「民主主義」という言葉の中に含まれてしまうのです。そのままで民主主義を訴えるはすなわち、政体をひっくり返し、憲法秩序をひっくり返し、共和政体の日本人民共和国を建国しようなどという考えと混同されかねません。吉野が論文を上梓するに前後して1901年には無政府主義者によって米国マッキンリー大統領が暗殺され、1908年には共和主義者によって、ポルトガル国王カルロス一世が暗殺されています。また、日本でも社会主義政党が旗揚げされ、社会不安が高まっていった時代でもありました。

 

  • キリスト教民主主義に立脚した中道な政治思想

 そこで、当時の憲法秩序を維持しつつ、天皇陛下を仰ぎつつ、君主政体の国家を維持したうえで、政治の本来の役割を論文の中で問おうとしたのでした。仮に君主制の国であったとしても、政治の本義は民衆が幸せになることで為政者が私腹を肥やすことではありません。つまり、彼は貧富の差を少しでも解消し、人は本質的には平等であることを説きつつも、君臣の序が置かれていることも、また秩序として守るべきと説いたのです。平等を絶対的な原則として訴えれば究極的には階級闘争をし革命まで発展しかねません。しかし、秩序があって、現状「君」がいて「臣」がいる、雇い主がいて雇われる従業員がいる。その現状は追認したのです。

 これがキリスト教民主主義です。本質的に神の前に平等ではあるが、現状、神はある者を雇い主、ある者を従業員、ある者を親、ある者を子とし、ある者を王為政者とし、あるものをその王に属する国民としたのです。教会の中でさえ、完全な無政府主義をとらず、牧師、長老、執事と一般信徒の間にキリストのからだとしての機能、役割の差があることを聖書は容認しています。本質的、究極的、最終的には神の前に平等であることを説きますが、便宜的、形式的、現世的にはその機能、役割の違いを認めるのです。

 彼は別の論文で、民本主義は、フランス革命が如きものとは一線を画することをうったえています。これは究極的に君と臣を差別し、主君の前に民草にはただただ屈従を要求する儒教的価値観でもなければ、なんでも平等を絶対化する共産主義的考え方とも違います。そう、吉野は天皇親政を主張する極右と共産革命を志向する極左との一線を画してキリスト教民主主義に通底する民本主義を、ど真ん中ストレートを目指した思想家でありました。

 

  • 吉野博士が、もし現代日本によみがえったならば

 彼は民主主義が共産主義、社会主義と混同されるのを避けるために民本主義という言葉を使ったのです。彼が今の世に生きていれば、彼は天皇を象徴して仰ぎながら国民主権を基本原則とする今の日本の政体を見たときにきっと涙を流して喜ぶでしょう。また、一方で共産主義者、マルクス主義者と手を取り合う一部の左派キリスト教人士の存在を知れば、涙を流して悲しむのではないでしょうか?

 次回、吉野がリードしたこの民本主義がその後どうなったかをみていきます。

(続く)